佐野史郎の実家はなぜ代々医師?江戸時代から続く医師の家系と“実家じまい”【徹子の部屋】

佐野史郎の実家はなぜ代々医師?江戸時代から続く医師の家系と“実家じまい” 話題・トレンド
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俳優の佐野史郎さんといえば、1992年のドラマ『ずっとあなたが好きだった』の「冬彦さん」役をはじめ、映画やドラマで独特の存在感を放ってきた名優です。
「冬彦さん」のイメージが強烈で今でもそのイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。
筆者はどうしても「冬彦さん」の表情が一番に頭に浮かんでしまいます。

そんな佐野史郎さんには、俳優としての姿からは少し意外に感じられる家族の歴史があります。

実は佐野さんの実家は、島根県松江市で江戸時代末期から続いてきた医師の家系。佐野さん自身も、本来なら医院の「5代目」になることを期待されて育ちました。

しかし、佐野さんが選んだのは医師ではなく俳優の道でした。

そして長い年月を経て直面したのが、先祖代々受け継がれてきた「実家じまい」です。

2026年8月26日放送の『徹子の部屋』でも、「江戸時代から続く医師の家系…“実家じまい”を」というテーマで、この家族の歴史が語られます。

佐野史郎さんの実家はなぜ代々医師だったのでしょうか。そして、なぜ150年以上続いた家を閉じることになったのでしょうか。

その背景をたどってみます。

佐野史郎の実家は江戸時代から続く医師の家系

佐野史郎さんの実家は、島根県松江市にある医師の家系です。

鳥取大学医学部附属病院の佐野さんとの対談によると、実家の佐野医院(現・佐野内科循環器科医院)は、元治元年(1864年)から続いてきました。

1864年といえば、まだ江戸時代です。

明治維新が1868年ですから、その4年前から佐野家は医家として地域医療に携わってきたことになります。

佐野さんが育った家そのものも非常に古く、幕末の安政年間に建てられた約170年前の建物だったといいます。

母屋だけでも10部屋以上。

かまどでご飯を炊き、囲炉裏を囲んで食事をしたという佐野さんの幼少期の記憶からも、一般的な現代住宅とはまったく違う、長い歴史を持った家だったことが分かります。

佐野史郎は本来「5代目」になるはずだった

佐野史郎さんは、そんな佐野医院の長男として生まれました。

父親は佐野医院の4代目。

つまり佐野さんは幼いころから、

「将来は医者になって佐野医院を継ぐ」

ことを期待されていたのです。

鳥取大学医学部附属病院との対談でも、佐野さんは「本来なら5代目になるはずの人」と紹介されています。

今では子どもが親とはまったく違う職業に就くことは珍しくありません。

しかし、代々続く医家で、しかも長男となれば事情は違います。

佐野家にとって医院は単なる仕事ではなく、代々受け継いできた「家業」でもあったのでしょう。

佐野さん自身、後年になって、長男が医者を継ぐという考えが代々受け継がれていたことについて語っています。

佐野さんが医師になることを期待されたのは、父親個人の希望というより、150年以上続く「佐野家の物語」の中で自然に決められていた進路だったのかもしれません。

なぜ佐野家は代々医師になったのか?

では、なぜ佐野家では何代にもわたって医師が続いたのでしょうか。

現在のように「子どもは自分の好きな職業を選ぶ」という考え方が一般的ではなかった時代、商家や職人、農家などと同じように、医師の仕事も家業として次の世代へ受け継がれるケースがありました。

佐野医院が始まった1864年は、まさにそうした時代です。

医学の知識だけでなく、患者との関係、地域からの信用、医院や土地なども含めて次の世代へ引き継ぐ。

そう考えれば、佐野家にとって「医師になること」と「家を継ぐこと」は、ほぼ一体だったのでしょう。

そして、そのバトンは初代から2代目、3代目、4代目へと受け継がれていきました。

父親も「医師になって家を継ぐ」人生だった

佐野史郎さんの父親もまた、その流れの中にいました。

父親は東京医科大学の勤務医として働いていましたが、その後、生家のある松江に戻り、開業医として佐野医院を継ぎました。

つまり父親自身も、「医師として実家を継ぐ」という役割を果たした人物だったのです。

佐野さんは東京で生まれましたが、小学校1年生のころに家族とともに松江へ移りました。

そして父親は4代目として地域医療に携わっていきます。

1964年には佐野医院の新病棟が建てられました。

当時は住み込みの職員もおり、佐野さんの母親は30人分以上の食事を用意したり、往診する夫の運転を務めたりすることもあったと伝えられています。

つまり「医院を継ぐ」ということは、医師一人だけの問題ではありませんでした。

家族全体で「佐野医院」を支えていたのです。

そんな両親の姿を見て育った長男の佐野史郎さんに、次の5代目として期待が集まったのは自然なことだったのでしょう。

佐野史郎はなぜ医師にならなかった?

ところが佐野史郎さんは、医師とはまったく違う世界へ進みます。

大きかったのが、若いころから抱いていた芸術への強い関心でした。

音楽、映画、文学などに夢中になり、「表現すること」に惹かれていきます。

実は佐野家には、そうした芸術的な雰囲気もありました。

父親はバイオリンを弾き、オーディオやカメラが好きだったといいます。母親もピアノを弾き、漢詩を好んでいました。

医師の家でありながら、芸術や文化が身近にある家庭でもあったのです。

佐野さんは高校時代まで医師になることを期待されていましたが、やがてその道から離れることを決断。

高校卒業後に上京し、自分なりの表現の道を探し始めます。

その後、1975年に劇団「シェイクスピア・シアター」の創設メンバーとして参加。1980年には唐十郎さん率いる「状況劇場」に入り、本格的に俳優の道を歩んでいきました。

そして1992年、『ずっとあなたが好きだった』の冬彦役で大ブレイク。

医師の5代目になるはずだった青年は、日本を代表する個性派俳優の一人となったのです。

医師にならなかったことへの「負い目」もあった

ただし、佐野さんにとって「医師にならない」という決断は、家と完全に決別するような単純な話ではなかったようです。

佐野さんは後年、松江の医院を弟に任せてきたことについて「負い目」があったと語っています。

そのため、家族や親族から後ろ指を指されないよう、俳優として頑張ってきた部分もあったそうです。

2025年に出演した『スイッチインタビュー』では、長男が医者を継ぐという価値観を「呪縛」と表現する一方、親から愛情を受けて育ちながら家業を継がなかったことへの複雑な気持ちも明かしています。

一方で、両親は最終的には佐野さんの俳優活動を応援していました。

NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』に出演した際には、父親がテレビ画面に映った息子の名前をカメラで撮影するほど喜んだそうです。

医師になってほしい。

しかし、息子が選んだ俳優の道も応援したい。

佐野さんの両親にも、そんな二つの思いがあったのではないでしょうか。

佐野医院を継いだのは弟だった

佐野史郎さんが俳優の道へ進んだことで、佐野医院の医師としてのバトンは弟が受け継ぎました。

その意味では、「医師の家系」が佐野さんによって完全に途絶えたわけではありません。

しかし、ここで重要なのが、

「医院を継ぐこと」と「家を継ぐこと」は同じではなかった

という点です。

佐野さんの母親は、松江にある先祖代々の家を守り続けていました。

佐野さんは以前のインタビューで、母親には「家業を継いだ弟ではなく、長男が家を継がなければならない」という意識があったことを明かしています。

医院は弟が継いでも、先祖代々の家や墓をどうするのかという問題は残ります。

そして長男である佐野史郎さん自身も、その問題から完全に離れることはできませんでした。

佐野史郎が決断した「実家じまい」とは?

大きな転機となったのが母親の死でした。

母親は高齢になってからも、長年にわたって松江の実家を守り続けていました。

古い家を建て替える話が出たこともあったそうですが、「先祖に申し訳ない」という思いから受け入れなかったといいます。

それほど母親にとって「佐野家を守る」ということは大きな意味を持っていました。

しかし母親が亡くなり、長い歴史を持つ家を今後どうするのかという問題が現実のものになります。

そこで佐野さんが決断したのが「実家じまい」でした。

先祖代々の家を片付け、閉じることにしたのです。

遺品整理で処分した量は20トン以上

ところが、約170年続いた家の片付けは簡単ではありませんでした。

家には仏壇をはじめ、先祖の代から受け継がれてきた膨大な家財が残されていました。

佐野さんは半年ほどかけて少しずつ整理。

2025年の『スイッチインタビュー』では、最終的に処分した量が「20トン余り」に達したことを明かしています。

20トンという数字からも、一般的な引っ越しや遺品整理とはまったく規模が違うことが分かります。

しかも問題は量だけではありません。

長い歴史を持つ家では、一つひとつの品に家族や先祖の記憶が残されています。

「これは捨ててもいいのか」

「これは残すべきなのか」

その判断を繰り返さなければなりません。

実家じまいとは、単に古い家具や荷物を処分する作業ではないのです。

親族に「守ることができず申し訳ございません」と手紙

佐野さんの実家じまいで特に印象的なのが、近しい親族に手紙を送ったというエピソードです。

その手紙で佐野さんは、医家として続いてきた歴史に幕を閉じることになったことを伝え、家を守れなかったことへの申し訳なさを記しました。

そこには、単なる不動産処分とは違う感情があります。

佐野さん自身、「5代目として継げなかった」ことへの思いが残っていたと語っています。

10代のころに俳優の道を選び、それから半世紀近くが過ぎてもなお、「長男として家を継がなかった」という感覚は完全には消えなかったのでしょう。

若いころに逃れようとした「家を継ぐ」という役割と、70歳になって再び向き合うことになった。

佐野史郎さんの実家じまいが印象的なのは、そこに一人の俳優の人生そのものが重なっているからかもしれません。

「実家じまい」は佐野史郎だけの問題ではない

佐野史郎さんの実家は約170年前から残る家ですから、かなり特殊なケースにも見えます。

しかし、「実家をどうするのか」という問題そのものは決して特殊ではありません。

子どもは進学や就職を機に故郷を離れ、別の土地で家庭を築く。

親だけが実家に残り、その親が高齢になったり亡くなったりしたとき、誰も住まなくなった家だけが残る。

こうした家庭は今後ますます増えていくでしょう。

さらに実家には、

・大量の家財や遺品
・土地や建物
・仏壇
・墓
・先祖から受け継いだ品

など、簡単には処分できないものがあります。

佐野さん自身も以前から、実家や墓をどうするのかという問題は自分の家族だけではなく、社会全体の問題ではないかと語っていました。

その言葉通り、佐野家の「実家じまい」は現代日本の多くの家庭が直面する問題とも重なっています。

150年続いた佐野家から見える「家を継ぐ」という価値観の変化

佐野家の歴史をたどると、日本人にとっての「家」の意味が大きく変わったことも見えてきます。

かつては、

長男が家を継ぐ。

家業を継ぐ。

土地や家を守る。

墓を守る。

そして次の世代へ渡す。

そうしたことが当然と考えられていた時代がありました。

佐野さんの父親も医師となって松江へ戻り、4代目として医院を継ぎました。

しかし佐野さんの世代になると、職業も住む場所も自分で選ぶ時代になります。

佐野さんは医師ではなく俳優になることを選び、東京で人生を築きました。

それは個人の生き方が「家」から自由になっていった時代の変化でもあります。

ところが家から離れることができても、最後には「その家を誰が閉じるのか」という問題が残りました。

ここに佐野史郎さんの実家じまいの興味深さがあります。

家を継がなかった人が、最後に家を閉じる役割を引き受ける。

150年以上続いた佐野家の物語は、「家を守る時代」から「家をどう終えるかを考える時代」へ日本社会が変わってきたことを象徴しているようにも見えます。

まとめ|佐野史郎の「実家じまい」は150年続いた家族の物語の一区切り

佐野史郎さんの実家は、1864年から島根県松江市で続いてきた医師の家系でした。

父親は4代目で、長男だった佐野さんは本来なら5代目として医院を継ぐことを期待されていました。

しかし佐野さんは医師ではなく俳優の道を選び、医院は弟が継承します。

それでも「長男として家を継がなかった」という思いは佐野さんの中に残り続けました。

そして母親の死をきっかけに、約170年の歴史を持つ実家を閉じることになります。

半年をかけた片付けで処分したものは20トン余り。

親族には、医家の歴史に幕を閉じること、家を守れなかったことへの思いを手紙で伝えました。

「実家じまい」という言葉だけを聞けば、家や荷物を整理する話のようにも思えます。

しかし佐野史郎さんの場合、その背景には、江戸時代から続く医家、長男として生まれた責任、俳優になるという決断、両親への思い、そして150年以上続いた「家」を自分の代で閉じる葛藤がありました。

一方で、これは佐野家だけの特別な物語でもありません。

親が守ってきた実家を、子どもの世代がどうするのか。

「家を継ぐこと」が当たり前ではなくなった現代だからこそ、今度は「家をどう終えるのか」が多くの人にとって現実的な問題になっています。

佐野史郎さんの実家じまいは、私たち自身にとっても決して遠い話ではないのかもしれません。

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